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          丹波福知山明智光秀公研究会

         2020NHK大河ドラマ「明智光秀」麒麟がくる決定


研究会の目的
丹波福知山明智光秀公研究会は、福知山市とゆかりのある明智光秀に関する研究、PRを目的とする市民等が、相互に連携を図りながら研鑽を深め、その歴史、伝承を広く紹介することにより、光秀公ゆかりの福地山の情報を発信するとともに、関連市町村の広域観光連携を促進する。



      
               

       




明智光秀公顕彰会福知山大会
平成23年11月19日 植樹場所 福知山市御霊神社
全国の顕彰会会員様を、ご案内して福知山市で開催しました。
西教寺中島眞瑞先生より寄贈頂いた「光秀もみじ」記念植樹
七年の月日を重ねて立派に成長しました。
秋になると真っ赤に紅葉します。
記念植樹
作家 中島道子先生・瑞浪明智光秀公顕彰会 水野会長
丹波福知山明智光秀公研究会会長 山口正世司 御霊神社宮司 足立常秋
丹波福知山明智光秀公研究会
事務局 西雄直樹




                        



綾部(何鹿郡)と明智光秀

     1) 古屋洞峠と明智光秀(上林)

             2) 草壁の金剛寺と明智光秀(上林)

             3) 君尾山光明寺と明智光秀(上林)

             4) 武吉の荊城山薬師寺と明智光秀(上林)

             5) 山家の甲ヶ峯城と明智光秀(山家)

             6) 向田長福寺と明智光秀(志賀郷)

             7) 向田ゆるぎ松・しずく松と明智光秀(志賀郷)

             8) 物部北野城志賀氏と明智光秀(志賀郷)

             9) 丹波猿楽梅若家と明智光秀(大島町)

             10) 栗村井堰と明智光秀

1.洞峠の歴史

1300年前の平城宮時代から、海に面した若狭の国から京や奈良の都に海産物を送る流通ルートがあった。御贄(みにえ)献上という宮中に食材を収める納税の形で若狭青郷で生産された塩・鮨を背負子に担いでまず、三国岳を越えて丹波上林に入り、次に洞峠を越えて現在の南丹市美山町鶴ケ岡で一泊して都へ運んだ。若狭東部からは、棚野坂峠を越えて鶴ケ岡へ、若狭西部からは、三国岳そして洞峠を越えて鶴ケ岡に入った。その後のルートは現在の周山街道を使って亰の都に入った。文政3年(1820)棚野の豪農内牧長兵衛・長左衛門の二人と出資協力して、洞坂に新坂を開削して上林への通路を大きく改善した。(美山町誌)

この近代的に開削された道の曲がり角に、「南無大師遍照金剛」の石碑があった。背面の年号は文政3年(1820)と刻まれている。出資協力して洞坂に新坂を開削して上林への通路を大きく改善した文政3年と合致している。従って、この「南無大師遍照金剛」の石碑は、洞坂に新坂を開削の際に設置されたものと推定した。洞坂は厳しい谷で、何処にでも自由に道をつけられる地形ではない。したがって何処に道をつけるかは最初からかなり絞られているはずである。ただ現在見られる峠道は相当な人力を投入して、固い山肌を開削しており、それ以前にこの固い山肌に道があったのだろうか。近世(きんせ)に開削してはじめて今の道が新たに出来たのではないかという感じがする。

それであれば新坂開削以前の道は多かれ少なかれ別のルートがあったことになり、世阿弥(推定)彦龍周興(推定)里村紹巴(推定)明智光秀(推定)らが通った道と今の道は厳密には違うのではないかということになる。

2月28日美山町豊郷の洞公民館での洞峠研究会に参加して、地元長老(85歳)の話で、現在の新坂道の上20mの所に旧道が存在することの話を聞き、歴史上人物が洞峠越えをしたことの確信をえた。

2.洞峠を越えたとされる歴史上の人物

1.「世阿弥」(ぜあみ)

永享(えいきょう)6年(1434)大和の猿楽師「世阿弥」が、佐渡へ流され時、洞峠を通る。(奥上林村誌)世阿弥は、家元争いで、将軍足利義教(よしのり)に抵抗し、将軍に謀反した重罪人として逮捕され、実に71歳という高齢で佐渡に流された。

2.「彦龍周興」(げんりゅうしゅうこう)

文明15年(1483)相国寺の禅僧「彦龍周興」が、京都から杉坂、洞峠を通り田辺、宮津に行く。(西遊藁)彦龍周興は、「西遊藁」(さいゆうこう)で「瀑布」(ばくふ)の存在を記録しているが、洞峠には大・小の滝がある。少なくとも周山街道にある「滝又の滝」は街道から少し離れたところにあるから、「滝又の滝」よりは洞峠の可能性が高い。

3.「里村紹巴」(さとむらじょうは)

永禄13年(1569)連歌師の「里村紹巴」が橋立紀行の帰りに洞峠を通った。(綾部市史上)里村紹巴は、舞鶴岸谷村より幾美峠を越えて上林遊里に出て、中上林石橋の「上林雲州館」に二夜宿とり、そして京への道は、「石橋~有安~古屋より洞峠を越えて宮脇へ出たものであろう」としている。

4.明智光秀」(あけちみつひで)

天正7年(1579)明智光秀が、君尾山光明寺を焼きはらい帰りに洞峠を通った。(信長公記)明智光秀が、何鹿郡を平定した時、最後まで抵抗した甲ヶ峯城主の和久氏を攻め滅ぼした。

和久左衛門佐は行方をくらましてしまい、光秀は徹底的に探すよう下知しています。光秀が上林に侵攻したのはこの時で、睦寄の君尾山光明寺や草壁の金剛寺を焼き払っています。その後、本能寺の変が起こり光秀の手の者が洞峠を越えて駆け付けたことも無きにしもあらずということです。

5.「川勝光照(かわかつみつてる)

元亀(げんき)3年(1572)北桑田郡の野々村庄を本拠として同郡・若狭・何鹿郡上林地方等七か所を領有していた今宮城主川勝光照は、織田方の軍が、上林に侵略し上林氏の拠点である君尾山光明寺を攻め落とされた。その時、鶴ケ岡・洞峠を越えて急いで来援に駆け付けたが光秀軍に敗れて今宮城へ退き自刃したとの伝承がある。(北桑田郡誌)

上林草壁金剛寺の歴史

当寺は紫玉山金剛寺と称し、本尊は延命地蔵尊。開山は春屋妙葩(しゅんおくみょうは)(普明国師)(ふみょうこくし)であって現在は臨済宗南禅寺派に属する。

もとは紫玉庵といい、元享(げんこう)年中(1323年)の創建と伝えるが、応安(おうあん)四年(1371年)に南禅寺山門破却事件をめぐり五山の指導者であった妙葩が管領細川頼之(よりゆき)と対立し、舞鶴の雲門寺(うもんじ)に隠棲した時期に京都往還(おうかん)の際この紫玉庵に休息するのを常としたところから明徳二年(1390)に金剛寺と改称し、すでに没していた妙葩を開山とあがめるにいたったものである。

妙葩が幕府と和解し南禅寺に還住(おうかん)したのは康暦(こうりゃく)元年(1379)であるが、その後将軍充満(じゅうまん)の発願になる相国寺の造営にも尽力した。上林荘はその大半が相手国手(こくしゅ)の領にあてられたところから、当寺は相国寺の寺領経営の拠点として重きをなしたと思われるが、次第に衰退し天正七年(1579)には、明智光秀の丹波攻めのため焼かれたという。諸堂伽藍を悉く焼失し慶安二年(1649)棟雲和庄(とううんおしょ)によって現在地に再興されたものである。

君尾山光明寺の歴史

真言宗醍醐派に属する古刹で、君尾山光明寺と称する。寺伝によると、推古天皇七年(599)聖徳太子によって建立され、後に役小角(えんのおづぬ)がこの地で修業し、延喜(えんぎ)年中に至って聖宝理源大師(せいほうりげんたいし)が真言(しんごん)の道場として再興、坊舎七二坊に及ぶ大寺院であったが、大永七年(1527) 「赤井の兵乱」により二王門を除く全山が焼失した。天文二年(1533)上羽(うえば)丹波守が大施主(せしゅ)となって再建したが、天正七年(1579)明智光秀丹波侵攻の戦乱で再び焼失した。本堂は天保七年(1836)に再建され本尊は千手観世音菩薩をまつる。

国宝二王門は宝治二年(1248)竣工したことが柱上の墨書銘(ぼくしいめい)によって判明、鎌倉時代における類例少ない和様(わよう)系二王門の遺構である。

市指定文化財の宝篋印塔は無銘ではあるが細部にわたって丁寧に仕上げられた南北朝時代の優品である。勧進帳は天文二年再建時の勧進状と奉加帳(ほうがちょう)で数少ない中世の生活資料として貴重である。

国宝・仁王門は、綾部市の唯一の国宝、丹波・丹後では建物の国宝としては唯一のものである。

武吉の荊城山薬師寺の歴史

「丹波志」に記載

「荊城山薬師寺古跡、深山ニ古跡、字ニ大御堂小御堂ト云所ニ七堂伽藍五丈斗滝アリ、天正年中明智光秀福知山城エ引諸仏残リ村エ引取三間四方薬師堂建立安置ス」

臨済宗の禅寺と、真言宗の宗派で本尊とする大日如来坐像。一見、不思議な組み合わせは、この仏像の数奇な運命を物語る。戦国時代、1580年ごろ、武吉町の山中にあった真言宗薬師寺の本尊として安置されていたが、明智光秀(1582年)が福知山城を築く際、建築材料を得るために同寺を取り壊した。住む所を失なった仏像は、以後、村の民家や庵(いおり)を転々とした。その後、玉泉寺に大日堂を立て安置する。

滝と寺跡のセットが武吉町深山にあり、武吉の玉泉寺に現在ある大日如来はかつてそこにあったらしい。「時うつり明治初年となり廃仏毀釈の厄にあい堂は壊され諸仏まさに処理されようとする寸前、通り合わせた福知山の商人に薬師如来・観音・勢至(いせい)菩薩の三体は買とられ、後に笹尾の円応寺境内に祀られて今日に至った」



山家の甲ヶ峯城の歴史

甲ヶ峯城は、永禄六年(1563)和久左衛門佐義国により築かれたと伝えられます。

天文年間(1532~55)年、丹波守護代内藤氏に従い天田郡に勢力を広げた横山城主塩見大善頼勝は四男和久左衛門長利を天田郡和久城に配し、後に和久氏は内藤氏の命により何鹿郡に入部して甲ヶ峯城を築いたとされています。永禄八年(1565)天田郡に侵攻した黒井城主赤井直正は、和久郷での守護代内藤勢との合戦で内藤宗勝を討死に追い込みます。このため内藤方に付いていた横山・奈賀山・和久・牧氏等の「天田郡馬廻衆」は赤井方に奔り、宗勝の子貞勝の籠る鬼ヶ城を攻撃しています。永禄十一年(1568)織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると丹波の国人衆は信長の配下に入りますが、その後、信長と義昭が対立すると丹波衆は義昭方に与(くみ)します。このため信長は明智光秀に丹波制圧を命じ、天正七年(1579)甲ヶ峯城は明知勢の攻撃を受けて落城し、和久氏は帰農したと伝えられます。「御霊神社文書」によると和久氏はここを「寺庵」と称して明智光秀の城破却令に従わなかったため討伐を受けたとされています。

向田(むこだ)観音堂長福寺

この御堂は瀧本山長福寺の観音堂で、本尊は聖観音菩薩である。昔から向田の観音さんと呼ばれ、向田おどりで有名である。

天正の頃、明智光秀が別所の願成寺の僧徒(山伏)の反乱を討伐した時、光秀の武将岡部山城守が功によって別所の瀧谷にあった観音像を与えられたので自領に持ち帰ろうとして向田長福寺の庭で休憩した所、観音像は大地に根が生えたように動かなくなり山城守も又金しばりになったように動かなくなったので、遂にこの地に土着して祀るようになったと伝えている。向田の観音は昔から眼病に霊験があるとして親しまれてきた有名な仏様である。

滝本山長福寺の聖観音は眼病に効験ある「向田の観音さん」として信仰を集めた。陰暦7月17日には丹波・丹後から何千人という人が参詣し、夜は盆踊りが行われ、子の刻には向田観音音頭が一種の勤行のように納められた、という。別所と眼病と聖は相互に深い関係があることがわかる。

此山城守の裔が向田村の旧家岡井氏であるとの説もある。

向田の「しずく松」「ゆるぎ松」

向田には、それはそれは、年古(としふる)りた松の名木があり、五社の霊験があらわれるようになってから、毎年正月六日の午前十時になると、松のしずくが雨のように落ちたというのです。そして、このしずくの多少によって、その年の旱魃(かんばつ)や水害を占い、耕作の指導までしたというのです。ところが、天正七年(1579)明智光秀が福知山城を築く時、占ってもらったら「川上に名木がある。これを棟木にしたら成就する」と出たので「しずく松」と「ゆるぎ松」を探しあて、これを切ろうとしました。ところが、木こりがこの「しずく松」をいくら切り倒しても、その切り材が夜中に集まって元の木になっているので、木こりは驚き恐れ、切ることができなくなったということです。光秀は怒って、松の木を切っては燃やし、大幹だけを残して全部焼き捨ててしまいようやく切り倒すことができたそうです。

現在、志賀郷公民館には、大木の松の皮が保存してありますが、これは「しずく松」の皮と言い伝えられています。暑さ12cm高さ70cm幹の直径3mと言われています。現在「志賀郷公民館」に保管されています。

志賀氏北野城

「北野城主家」は応永年間(1349-1427)頼宗がはじめて何鹿郡志賀主となり、鎮守として諏訪神社を勧請するとともに、城山の台地に菩提寺の北野山養源寺を創建したという。頼家より志賀家は土地に定着して土豪的な領主になり、民政にも力を注いだ。城の北東の谷に築造した大規模な北野池は、貴重な水源としていまも利用されている。頼宗九代の孫政綱のとき、明智光秀の丹波攻略の際降伏してその配下となったものとみえ、天正十年、山崎の合戦に光秀に従って出陣し、敗戦により討ち死している。政綱の子頼久は三歳の幼児であったが、乳母の里加佐郡桑飼村にのがれ、佐藤家で育てられ、成人して家を持ち、桑飼志賀家を建てる。名は北野城主家としては、頼久としたが、天正十年を境に帰農して百姓になっているので、長助となのり代々長助を襲名して現在10戸で続いている。

城下には志賀氏の開削したと伝わる美しい「北野池」が残り、池ノ谷の奥には、明智光秀の重臣が光秀の命により建てたと地誌に記載されている「今宮八幡宮」が守られている。

大嶋文隆氏資料採用

丹波猿楽梅若家の歴史(綾部市大島町)

永禄年間(1558~1569)以来、明智光秀公は織田信長公の有力武将として、高い政治的、文化的才能を発揮して、織田信長公と天皇家将軍足利家、公家衆との交渉、仲介に他の武将には出来ない役割を果たすと共に諸合戦に武功をたて、文武両道の武将であった。また光秀公は学問にも明る

く、歌道、茶道に詳しく、猿楽、能にも深い理解があった。当時、梅若家は29世直久、30世家久、31世広長の時代であったが、能楽を通じて光秀公と近く、光秀公の推薦や紹介で信長公、将軍家、公家衆の前で演能することしばしばであった。光秀公が信長公命を受け、丹波平定を進める中で梅若氏は丹波の豪族として其の旗下に参加し、天正八年(1580)八月明智光秀公が丹波の領主となると「丹波衆」の中にあった。天正十年(1582)六月二日「本能寺の変」にわ31世広長が、明智光秀公の軍勢の中に参加出陣し、戦傷死している。

綾部市大島町福田神社の境内に梅の森は神社があり梅宮大明神から来た名で元来梅津景久が氏神として祀ったものである。

大嶋文隆氏資料採用

栗村井堰と明智光秀

栗村(くりむら)井堰は明智光秀(あけちみつひで)が丹波を支配していたときに造ったとされていますが、確かな資料はありません。元禄(げんろく)6(1693)の絵図には、すでにこの井堰が記されており、栗村の大庄屋が管理してきました。慶応2(1866)の大洪水で井堰が壊れ、時の綾部藩主九鬼隆備(くきたかとも)の援助を受けて復旧されました。

堰の場所:綾部市位田町 水路の長さ:5,940メートル

農地を潤(うるお)す地域:綾部市位田(いでん)・栗・豊里・舘(たち)・今田・大畠(おおばたけ)・小西・石原(いしはら)・小貝(おがい)・私市(きさいち) 福知山市私市(約230ヘクタール)

綾部市並松町綾部井堰も明智光秀が造ったといわれています。















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