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          丹波福知山明智光秀公研究会

         2020NHK大河ドラマ「明智光秀」麒麟がくる決定


研究会の目的
丹波福知山明智光秀公研究会は、福知山市とゆかりのある明智光秀に関する研究、PRを目的とする市民等が、相互に連携を図りながら研鑽を深め、その歴史、伝承を広く紹介することにより、光秀公ゆかりの福地山の情報を発信するとともに、関連市町村の広域観光連携を促進する。

      
               

       




明智光秀公顕彰会福知山大会
平成23年11月19日 植樹場所 福知山市御霊神社
全国の顕彰会会員様を、ご案内して福知山市で開催しました。
西教寺中島眞瑞先生より寄贈頂いた「光秀もみじ」記念植樹
七年の月日を重ねて立派に成長しました。
秋になると真っ赤に紅葉します。
記念植樹
作家 中島道子先生・瑞浪明智光秀公顕彰会 水野会長
丹波福知山明智光秀公研究会会長 山口正世司 御霊神社宮司 足立常秋
丹波福知山明智光秀公研究会
事務局 西雄直樹




本能寺の変より山崎の合戦までの織田家臣の動き

本能寺の変とは

天正十年(1582)六月二日払暁(ふつぎょう)、戦国史上、いや日本史上最も有名な暗殺事件がこの日、京都本能寺において起こった。織田信長を家臣の明智光秀が滅ぼした、いわゆる「本能寺の変」である。

本能寺の変直前の光秀と信長の行動について、さらに二人を取り巻く主要な関係者の動きを知る必要があり調べてみました。

最初に織田家臣団の当時の状況について説明します。

1.明智光秀丹波平定後天正七年から天正十年の織田勢力図と武将の城郭図配

  置図について説明します。

.本能寺の変直前の信長を取り巻く織田家臣の状況について、説明します。

.本能寺の変当時の織田家臣団出陣状況について、説明します。

.本能寺の変直前の主だった織田軍の兵力について、説明します。

次に、本能寺の明智光秀と織田家臣の山崎合戦までの行動について

天正十年(1582)五月十五日、徳川家康が穴山梅雪をともなって織田信長のいる近江安土城を訪れた。信長が三月に行われた武田氏討伐の際の家康と梅雪の功に報いるためおちつきの膳で供応したと言われています。

「三鳥五魚とは(さんちょういつご)

三鳥とはツル・キジ・ガンをさします。この他にも献立をみますとヒバリ・シギ・サギなど多くの野鳥・水鳥が食されていたことがわかります。ツルは秋に日本に飛来し、その種類のほとんどが食用とされていたようですが、江戸時代には乱獲のためか、すでに貴重品となり格式ある儀礼献立にしか用いられなくなります。ヒバリなどは丸焼きにし、頭も骨ごと食されたようです。五魚とはコイ・タイ・スズキ・カレイ・フカをさします。中世の料理書『四條流庖丁』には「コイを一番としその次にタイなどだすべし」とありますが、江戸時代にはコイよりもタイを尊ぶようになります。また、同書には「サシ味之事」としてコイはワサビ酢、タイはショウガ酢、スズキならタデ酢など魚の種類により使う調味料まで規定されています

ちょうどそのころ、備中高松で毛利勢と対峙している羽柴秀吉から信長に救援要請が入る。信長は五月十七日、明智光秀とその組下である細川忠興、筒井順慶らに秀吉を支援するために出陣を命じ、自らも大軍を率いて中国戦線に出馬することにした。この十七日のうちに命を受けた光秀は西近江の坂本城に入っている。信長は秀吉の支援を光秀に命じた際、こう付け加えたと言われています。その内容は、毛利領出雲国と石見国の「切り取り次第」にまか

せ、代わりの現在所領である丹波と近江の志賀郡を没収するという厳しいものだった。

信長はこれから闘いに向かう光秀を発奮(はっぷん)させるためにこんな非情な命令をしたと言われるが、真意は定かではない

光秀はきのうきょう家来になった男とは違うのだ。織田家をここまで大きくした大功労者にあまりといえばあまりの仕打ちだった

二十六日、光秀は坂本から居城の丹波亀山に移った。翌二十七日、光秀は愛宕山に詣で、その夜はそこで参籠(さんろう)した

かしら心にかかることがあったらしく、二度三度と籤を引いている。二十九日信長は、午後四時ごろ四条西洞院の本能寺に入った。同行はしたのは小姓衆わずか二、三十人だったいう

六月一日この日、信長は公家や有力商人を招待して茶会を催している。信長は招待客相手に名物茶器を自慢したり碁を打ったりと終始機嫌がよかったという

10年(1582)6月1日明智光秀が織田信長より豊臣秀吉の中国攻めの援軍を命ぜられて丹波亀山を出発し先鋒が屏風岩に達したところで急遽(きゅうきょ)京都本能寺へ鉾先を変え後戻りしたことから後世に「明智戻り岩」と呼ぶようになったと言われています。その後、京を目指して丹波街道を進んだ事になっています。また、光秀が自らの軍に謀叛を告げたかについては、亀山を出発した後で、まず婿の明智秀満をはじめ甥の斎藤利三、横尾勝兵衛、藤田伝五、明智次右衛門ら五名の重臣に告白したという

ところで、明智軍の進軍については、沓掛でいったん兵を休息させた光秀は、家臣の天野源右衛門を呼び出し、「軍勢の動きを本能寺に通報する者がいたら斬捨てるように」命じ先行させたという

桂川畔に到着すると、鉄砲の火縄に点火すること、新しい草鞋に履き替えること、などを全兵士に命じたそして、全軍が渡河(とか)し終えたところで光秀は、「敵は本能寺にあり」と、史上有名な一言を叫ぶのである

ここで大方の兵士ははじめて光秀の謀叛を知ることになった

一方、本能寺では夜遅くまで酒宴が続けられていた。織田信忠が宿舎の二条城に戻り、信長が寝所(しんじょ)入ったのはかなり遅い時刻、夜が白んでからだったという。その寝入りばなを周囲のざわめきで起こされたのは、卯の刻のことであった

最初、信長は家来同士の喧嘩だと思っていたらしい。ところが、光秀の謀叛であることを知らされ、愕然とする信長は自らの目で光秀の軍勢が本能寺を十重二十重に取り巻いていることを確認すると、「是非もなし」の一言を残し殿中深く入った。

その後、自ら火を放ち、自害したという。享年四十九歳、波瀾の人生を象徴するような凄絶

な最期であった

本能寺・二条御所を襲撃し信長・信忠を殺害した明智光秀は昼過ぎまで京町中を捜索して織田軍の残党狩り及び信長の遺体の捜索を行います。

昼過ぎ、信長の遺体を確認できないまま光秀は近江へ出発しかし、近江の武将・山岡隆景は信長の恩義に報いるため瀬田橋と自らの居城を焼き光秀へ敵対。

光秀はこの日、安土攻めを断念し居城・坂本城に入城しました。この日、光秀の与力でもある、大和(奈良)の、筒井順慶は京に向っていましたが、途中で信長横死(おうし)を知り慌てて帰国しています。三日、瀬田に仮設の橋を架け明智軍は近江東部に進軍安土城へ向かいます。四日、近江の多くの武将が光秀に投降・協力を約束します。大和に戻っていた順慶も家臣に少数の兵を預け光秀のもとへ向かわせますが、光秀に合流することなく退却。去就に迷っていた順慶は日和見(ひよりみ)を決め込みます。

五日、光秀は、無人に近い状態だった安土に入城。手つかずになっていた金銀財宝を使い、朝廷や京周辺の町衆・寺社などに贈り支持を得ようと画策します

斎藤利三は秀吉の居城・長浜城を攻略。山崎片家も佐和山城を攻略近江の大部分を光秀は制圧します。七日、誠仁親王(さねひとしんのう)が派遣した吉田兼見が安土に到着光秀に都の秩序回復を要望します

八日、光秀は明智秀満に安土留守居を命じると京へ向かいます。九日、光秀、上洛。正親町天皇と親王に銀子五十枚を献上。夕食後に京・下鳥羽に出陣。吉田兼見らはこれを見送ります。この頃、細川藤孝・忠興父子に味方になってくれるよう願う書状を送ります。信長の死の直後、細川藤孝は剃髪(ていはつ)し幽斎と名を改め信長への弔意を表し、忠興も髻(もとどり)を切り、妻で光秀の娘である玉子(後のガラシャ)を、幽閉して光秀の誘いを拒否する姿勢を示していた細川父子でした。これに対し光秀は再三書状を送り、条件をつけて味方になってくれるよう頼んでいます。

当初、腹も立ったがその気持ちもわかる」としながら「望みの領地を与える」「事を起こしたのは忠興たちを取り立てるためで他意はなく近国を平定したのちは十五郎(光秀の嫡男)や与一郎(忠興)に譲り自らは引退」するという内容を書き記(しる)し味方になるよう懇願(こんがん)しますがそれでも細川父子は拒絶しました。この時の書状が残っています。十日、光秀は山城八幡洞ヶ峠に着陣。籠城の準備をはじめた順慶を説得するため藤田伝吾派遣。しかし順慶は光秀に与することを拒否します

天正十年六月三日備中高松城にいた羽柴秀吉の陣近くで不審者を捕らえ、調べてみると、小早川隆景宛に「織田信長討たれる」の光秀の密書を持っていた。

織田信長が、明智光秀の謀叛により討たれる事を知った秀吉は、毛利側と和平工作を始める

報を聞いた秀吉の参謀のような存在であった黒田孝高(よしたか)は「運が向いてきましたな」と言ったとか中国大返しも黒田の進言によるところが大きいとされています。

羽柴秀吉の中国大返しは、天正十年六月午前二時とされ羽柴秀吉、毛利側と秘密のうちに講和をまとめ、備中高松の陣を引き払います。備中高松城より二万の大軍を引き連れて中国大返しを開始する。備中高松城より、大山崎の合戦場迄、甲冑姿で二百キロを十日間で進軍できるのか謎の中国大返しが始まりました。 

陸上自衛隊を退役して、現在は戦国時代などの合戦を研究している方が、「歩兵の行軍速度は、現在も昔も三十kmぐらい」と述べていました。十日間で二百kmというのは、可能な範囲ということになります。

天正十年六月六日午後四時 羽柴秀吉、姫路城に到着します。豊臣家臣団にありったけの兵糧・金銀を分与し、戦の準備を整え待機します。六月九日 羽柴秀吉、姫路城から尼ケ崎城に向けて出陣する。羽柴秀吉軍は、六月十一日には尼崎城に入り、十二日には現在の高槻市あたりで、山崎で戦う事を想定した軍議を開いています。この時、徳川家康は、堺(大阪)にいました。家康も、お供の数が数十名という丸裸状態でした。本田忠勝、服部半蔵が同行していて、ある程度の猛者は連れていました。信長と言い、家康と言い、なぜこんなに無用心だったのでしょうか。というのも、周りには、織田家臣がそれぞれの敵と対峙していて、信長の敵は、いなかったのである。この時点での主だった敵は、東北の伊達、越中の上杉、関東の北条、中国の毛利、四国の長宗我部、九州の島津であった。滝川一益が関東で睨みをきかせているうえに、伊達と北条は信長に恭順する姿勢をみせていたし、越中の上杉は柴田勝家が攻略中、羽柴秀吉が備中で毛利と対峙、信長の三男信孝(神戸信孝)を総大将に置いて四国討伐の体制を整えている状態だった。つまり、近畿、関西に敵はいない状況でした

長年の脅威であった甲斐の武田を駆逐し、その功労者である家康を近畿に招きいれ、信長らは大いに羽を伸ばしていたのである

家康の家来、本多平八郎忠勝は京へ向かっていた。家康が信長のもとへ挨拶に伺うための先遣隊(せんけんたい)だったと思われる。


途中、商人の茶屋四郎次郎と出会う。京にいた茶屋は、本能寺の出来事を知ると、懇意(こんい)であった家康に知らせようと堺へ向かっているところだった。茶屋から話を聴いた忠勝は、来た道を急いで戻る。六月二日昼ごろ 本多平八郎忠勝と茶屋四郎次郎は、後発の徳川家康一行と合流。織田信長が明智光秀によって討たれたことを報告する。お供と共に、堺の町を観光中に「本能寺の変」が起きたことを、本多平八郎忠勝より聞いた徳川家康は、兵を率いていなかった為に、明智光秀の追っ手によって孤立する事となってしまいますが、伊賀の山中を密かに抜け、本国・三河に帰ることを決定します。堺の町で商家にかくまって貰いながら、配下の商人 茶屋四郎次郎 が先行して伊賀に向かい、脱出ルート上の村々に黄金をばらまいて協力を要請しますさらにお供の伊賀忍者 服部半蔵 が、伊賀の地にいる伊賀忍者・甲賀忍者に協力を要請しに向かいます徳川家康は協力要請に応じてくれた甲賀忍者の屋敷に一泊し、そのまま伊賀・甲賀の忍者300余名に守られながら伊勢湾に出て、船で海上から三河に上陸なんとか「伊賀越え」を果たします結果として、明智光秀は徳川家康を取り逃がす事となりました徳川家康、三河に到着。(到着日に諸説あり、六月六日から九日の間とされています。)十一日、羽柴秀吉の軍が尼崎に到着。順慶は秀吉に使者を送り敵対しないことを約束。この頃、「藤田伝吾が切腹した」とか「徳川家康が安土城に入った」という“風聞”(ふうぶん)が流れ明智軍は動揺します。織田信孝や丹羽長秀が秀吉と合流。光秀は淀城の普請を命じ、秀吉との合戦に備えます。この時、羽柴秀吉は総大将に丹羽長秀や織田信孝を推しますが、両者から望まれて羽柴秀吉が事実上の盟主となり、名目上の総大将は織田信孝と決定しました。六月十二日  羽柴秀吉が、中川清秀、蜂谷頼孝(はちやよりたか)、高山右近、池田恒興らを味方につける。秀吉が「織田信長存命」の噂を流布(るふ)していたので、秀吉軍につくものが多かったと言われています。さらに、四国討伐軍の織田信長の三男-織田信孝、丹羽長秀らと摂津富田(せっつとんだ)で合流する。明智光秀討伐軍は総勢三万六千~四万(うち二万は秀吉軍であります。)正十年六月十三日 両軍が山崎でぶつかる。(山崎の合戦である。)羽柴勢は羽柴秀吉を筆頭に黒田官兵衛・石田三成・蜂須賀正勝・堀秀政・中村一氏・堀尾吉晴・羽柴秀長・神子田正治(みこだまさはる)・蜂屋頼隆ら軍勢約二万、そして合流した織田信孝・丹羽長秀・高山右近・木村重滋(これ)・中川清秀・池田恒興・池田元助・加藤光泰(みつやす)ら約二万七千 合計 四万七千の秀吉軍に対して、迎え撃つ明智勢は斎藤利三・柴田勝定が二千、阿閉貞征(あつじさだゆき)・溝尾茂朝(みぞおしげとも)が三千、松田政近・並河易家(やすいえ)二千、伊勢貞興・諏訪盛直・御牧兼顕(みまきかねあき)が二千、津田正時が二千、明智光秀・藤田行政など五千、合計一万六千。両軍が山崎でぶつかる。おしよせる秀吉の大軍の前に光秀軍は撤退を余儀なくされる。光秀は勝竜寺城めざして逃げる途中、小栗栖の藪(京都市伏見区)で落ち武者狩りに遭い負傷。もはやこれまでと観念したのか、家臣に介錯され自刃する。天正十年六月十四日準備を整えた徳川家康が明智光秀討伐のために三河を出陣するへ向け軍を進めていた徳川家康は、尾張あたりまで来たところで羽柴秀吉が明智光秀を討ったという知らせを聞き三河に撤退し本能寺の変は集結しました。日本人にとって歴史上なじみの深い人物はたくさんいますが、とりわけ有名なのが織田信長,約百年あまり続いた戦国時代を、革新的な手法で終結に導いた人物としてあまりにも有名です。そのため織田信長が明智光秀の謀叛に会い、波乱万丈の人生を閉じた本能寺の変も多くの人に知られていますところが、どうして明智光秀が本能寺の変で織田信長を倒したのか、歴史家によって、様々な説が語られていますがその真実は定かではありません昨年、9月岐阜県美濃加茂市で、明智光秀直筆の密書が発見されて話題になっています。明智光秀が、反信長派リーダー土橋重治に宛てた密書、将軍足利義昭は織田信長に京都を追放され、毛利輝元が支配する広島県福山市鞆(とも)の浦にかくまわれていました。手紙には「貴殿から将軍がご入洛の時には協力する旨お知らせいただき有難うございます詳しくは将軍から指示があります。その時は宜しくお願いします。」と言った趣旨(しゅし)が書いてあり、将軍黒幕説を裏付ける物であると鑑定され話題になりました。この書状を発表した教授の見解から、その書状の中身を分析すると将軍足利義昭を奉じ室町幕府を再興すると言う明確な政権構想があったとしています今後、研究進み、新たな史料が出てくれば本能寺の謎は解けていくかもしれません。



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