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明智光秀丹波進攻

明智光秀丹波進攻と福知山
天正三年(1575)六月信長に丹波進攻を命じられ、丹波進攻を進めていた明智光秀は、丹波氷上郡黒井城の荻野直正を最初に攻めましたが、織田信長に恭順していた多紀郡八上城主波多野秀治が、突如背いて光秀軍に襲い掛かり大敗した光秀軍は京都に逃げ込み、その後坂本城に帰城しています。この波多野秀治の裏切りについては、丹波に支配力を強化しょうとする波多野氏と信長の勢力の伸長を恐れる毛利氏の働きかけが背後にあり、両者の利害が一致した結果と考えられます。やがて信長と毛利氏の対立が激化すると、天正五年、織田信長は、羽柴秀吉に中国進攻を命じ、一度失敗した明智軍は、再度丹波氷上、多紀郡の攻略を開始しました。明智光秀は、細川藤孝を、副将としてぞくぞくと丹波へ軍勢を送り込み、最初の丹波進攻に裏切られた波多野秀治の居城八上城の攻略に取り掛かりました。
明智光秀は、丹波攻略の最中にもかかわらず、織田信長の要請により各地の戦いに参戦しています。天正四年(1576)四月には、石山本願寺との天王寺山の戦いや、天正五年(1577)には、雑賀攻めに参戦し、同年十月には、信貴山城の戦いに参戦して城を落としています。天正六年(1578)四月二十九日には、毛利攻めを行う秀吉の援軍として播磨国へ派遣され、六月に神吉城攻めに加わって戦っています。
天正六年十月下旬には、織田信長に背いた荒木村重を攻めて有岡城の戦いにも参戦しています。丹波攻めと各地への転戦の往復を繰り返す明智光秀は、ようやく丹波攻めに専念し、八上城の攻略に取り掛かりました。八上城は、丹波富士と称される高城山に築かれた山城で、丹波戦国大名波多野氏の居城であり、麓からの高さが200Mを超すという要害に守られており、攻めにくい山城でであった。秀治の代に至って本丸、二の丸、三の丸、岡田丸を構築し、歴史に残る難攻不落の山城につくり替えています。天正三年から天正七年にかけて、明智光秀、羽柴秀長らの大軍による丹波攻めが始まり、前後11回にわたる攻撃にも八上城はゆるがなかったと言われています。光秀は八上城を、長期に渡り、取り囲む兵糧攻めを行い、この徹底した包囲戦により八上城はの補給路は完全に断たれ、城内では餓死者が続出したそうです。秀吉の「干殺し」にも勝るとも劣らない悲惨な光景が現出したそうです。天正七年(1579)七月落城し、波多野氏は滅亡しました。
ここで八上城落城について、篠山曽地村に残る落城秘話について、お話しておきます。明智光秀は、織田信長の命令で、丹波国八上城を奪い取ろうと、天正七年(1579)八上城を包囲して、食べ物を運び込む道をふさぎ、兵糧攻めにしょうと考えました。ここ数日もすれば兵糧がなくなるので城から二人、三人と逃げて出てくる者があるだろうと監視の目を光らせていました。所が十日たっても二十日たっても、一人も出てきません。不思議に思った明智軍は、八方に探りの手を伸ばし、見張っていました。
その時、曽地村の寺々から、山の尾根伝いに、笈に米、味噌を詰めて兵糧を運ぶ修行僧を見つけ取り押さえました。明智光秀は、怒って放火隊を繰り出して、まず四十九院に火を放ち寺を次々に焼いていきました。明智軍は寺から兵糧をはこんでいたお坊さんの首を次々にはねて、その場に掘った穴のなかへ葬りました。曽地川沿いの刑場跡に供養塚が安置されている。村びとたちが今も活ける草花が、瑞々しくおもえた。
光秀は、八上城落城後、直ちに第二次黒井城攻めを開始します。天正三年(1575)の第一次黒井城の戦いについては、明智光秀軍は圧倒的兵力で黒井城を包囲し戦況は明智光秀軍が有利であった。しかし攻城戦開始後二ヶ月以上が経過した翌天正四年(1576)一月十五日信長に恭順していた波多野秀治が突如三方向から攻め立て明智軍は総退却となり明智軍の敗戦となりましたが、第二次黒井城の戦いにおいては、赤井悪衛門直正が、癌により亡くなり、その後、赤井忠家に代わり、赤井忠家軍は、第一次黒井城の戦いの時は違い、波多野家からの援軍もなく、黒井城の支城もほとんど落城していまい、兵力も激減していたと思われます。翌天正七年(1579)三月に八上城と黒井城の分断を目的に金山城を築城します。金山城築城により分断の効果があり、又、主曲輪には僅かな手勢しか置いておらず、忠家も奮戦したが、最後は自ら火を放ち敗走しました。天正七年八月黒井城は、ようやく落城しました。
明智光秀軍は、多紀郡、氷上郡を平定し、その後、天田郡、何鹿郡に進攻を、開始します。







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