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明智光秀丹波進攻

明智光秀・丹波進攻(八上城・黒井城)
第一回丹波進攻は、天正三年(1575)六月、信長に丹波進攻を命じられ、丹波進攻を進めていた明智光秀は、信長に反抗的であった、丹波氷上郡黒井城の赤井直正を最初に攻めましたが、織田信長に恭順していた八上城主波多野秀治が、突如背いて、光秀軍に襲い掛かり大敗した光秀軍は、栗柄峠を越えて草山から亀岡に入りその後、京都に逃げ込み、坂本城に帰城しています。この波多野秀治の裏切りについては、丹波に支配力を強化しょうとする八上城主波多野秀治と、信長勢力の伸長恐れる安芸毛利氏の働きかけが背後にあり、両者の利害が一致した結果と考えられます。又、事前に波多野氏と赤井氏の密約があったものと考えられます。やがて信長と毛利氏の対立が激化すると、天正五年(1577)織田信長は、羽柴秀吉に中国進攻を命じ、一度失敗した明智軍は、再度丹波進攻を開始しました。明智光秀は、細川藤孝を、副将としてぞくぞくと丹波へ軍勢を送り込みました。その後、織田信長の要請により、丹波攻めをしながら、各地への転戦の往復を繰り返す明智光秀は、第一回の攻撃に裏切られた八上城への進攻を開始します。
波多野秀治の居城八上城は、丹波富士と称される高城山に築かれた山城で、丹波屈指の戦国武将波多野秀治が、明智光秀の丹波計略にたちはだかったとされています。麓からの高さが200メートルを超すという要害に守られており、攻めにくい山城でありました。波多野秀治の代に至って本丸、三の丸、岡田丸を構築し、歴史に残る難攻不落の山城に作り替えています。明智光秀は、八上城を、長期に渡り、取り囲む兵糧攻めを行い、この徹底した包囲戦により八上城の補給路は完全に断たれ、城内では餓死者が続出したそうです。天正七年(1579)七月、一年半にわたり籠城しましたが、ついに落城し、波多野氏は滅亡しました。
八上城主波多野秀治は、丹波国(現在の兵庫県付近)の有力武家である波多野一族に生まれました。丹波国多紀郡(現在の丹波篠山市)一帯における支配者としての地位を確立しました。一族や家臣、領民の信望厚かった秀治は兵糧攻めには持ちこたえたが、信長の天下統一の勢いには、おうじるしかなかった。
明智光秀が、八上城を兵糧攻めにする為に、城の周りを厳重に囲い込み城への食糧を絶ち、落城寸前にいたっていました。その時、曽地村の修行僧は秀治の信望に惚れ込み、窮地を救うべく修行僧に見せかけて、笈に米、味噌を詰めて、尾根伝いに八上城に運び続けて波多野秀治を、助けていました。僧侶らが山伝いに八上城へ兵糧を運び上げているところを、突き止めた光秀は、討伐隊を出して曽地にある寺院を徹底的に焼き討ちにしました。
秀治と村人、僧たちの絆の強さに感銘をうけながらも、光秀は村役人や修行僧たちの処刑を命じました。この事により、八上城の兵糧レートは途絶え、ついに落城となりました。曽地川沿いの刑場跡にいまも供養塚が安置されています。
八上城落城後、明智光秀は直ちに黒井城攻めに取り掛かりました。黒井城は、猪ノ口山(標高356m)にある山城です。約200年間数代にわたって城主が代わりましたが、戦国動乱の中、天文3年(1554)荻野悪衛門が城主となり、その勢力の拡大とともに大改修されたのが現在の黒井城跡です。一番高い山頂の主郭部には、複数の曲輪を並べ、これを囲んで中腹に六つの曲輪を配置し、約120haに及ぶ広大な猪ノ口山全体が城域であり、国の史跡になっています。第一次黒井城の戦いは、波多野秀治の裏切りにより、明智軍の敗戦となりましたが、第二次黒井城の戦いにおいては、丹波の赤鬼事、直正が、天正六年三月、五十歳で「がん」により病死したと言われています。求心力を失った赤井忠家軍は、第一次黒井城の時とは違い、波多野家からの援軍もいなく、黒井城の史城もほとんど落城してしまい、兵力も激減していたと思われます。黒井城の主曲輪には僅かな手勢しか置いておらず、忠家も奮戦したが、最後は自ら火を放ち敗走しました。天正七年(1579)八月、黒井城はようやく落城しました。
黒井城主赤井直正は、丹波の赤鬼と呼ばれ、破天荒な武将で、春日町の朝日城を拠点とする荻野家の養子に入り、荻野の名字になった。天文二十三年(1554)正月二日、年賀の席で、叔父の黒井城主荻野秋清を倒し黒井城主となり、悪右衛門を名乗りました、永禄八年(1565)には、丹波守護代で八木城主内藤宗勝を倒し、勢力を拡大させていきました。





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